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2012年10月1日星期一

小野寺 史郎 南京国民政府时期的党歌和国歌

孙蒋国匪黑帮篡国,建立党国的历史。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/onodera.pdf 小野寺 史郎 南京国民政府时期的党歌和国歌

文中提及台湾孫鎮東,中国皮後鋒的论著。

南京国民政府期の党歌と国歌
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小野寺 史 郎
は じ め に ………………………………………………363
Ⅰ 国歌・党歌・国民革命歌 ………………………………364
Ⅱ 中国国民党党歌の成立 …………………………………368
Ⅲ 中国国民党党歌をめぐる議論 …………………………372
Ⅳ 正式国歌制定の試み ……………………………………374
おわりに―国歌・党歌問題の再燃 ………………………382
は じ め に 
近代国家のナショナル・シンボルとして、国旗と並んで重要視されるものに国歌がある。
近代中国における国歌の成立と沿革というテーマに関する概説としては、台湾では孫鎮東
の著書(1) 、 中国では皮後鋒の論文(2) がある他、 膨大と言ってよい数の文章が書かれている。
ただそれらのうち、史料的根拠を示して学術論文の形式をとったものはむしろ非常に少な
く、先行する文章を断りなく引き写した結果、単純な事実関係の誤りを繰り返すものがほ
とんどというのが従来の状況であった。近代中国における政治シンボルというテーマにつ
いての代表的な研究であるハリソンの著書も、北京政府の「卿雲歌」や北伐期の「国民革
命歌」についてはその存在に触れるだけであり(3) 、また南京国民政府期の国歌の成立過
程についても事実関係を正確に把握しているとは言い難い。そのため、国歌の問題はハリ
ソンの研究の中で最も手薄な部分となっている(4) 。
近年における近代中国の政治シンボルに関する研究の進展に伴い、ようやくこの問題に
関しても学術的検討の基盤が整いつつある。例えば代表的なものとして、清末の国歌制定
の過程とその意味について論じた遊佐徹や(5)
、 「卿雲歌」の成立過程とそれをめぐる音
南京国民政府期の党歌と国歌小野寺 史 郎
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楽界・教育界の論争を詳細に追った李静の研究が挙げられる(6) 。前に発表した拙稿も、
清末から北京政府期にかけての国歌の制定過程、そしてそれをめぐる議論の展開について
検討し、そこにおいて何が問題となったのかを明らかにしたものだった(7)

本稿はこれらの研究の進展を踏まえた上で、未だに研究上の空白となっている中国国民
党党歌、そして南京国民政府の国歌の制定過程とそれをめぐる議論、その各種の政治儀式
における利用の展開について検討する。またそれを通じて、南京国民政府期の党・国家関
係の特徴の一端を明らかにすることを試みる。
Ⅰ 国歌・党歌・国民革命歌 
前稿で明らかにしたように、北京政府は1920年に『尚書』所載の舜の作とされる歌詞
に蕭友梅が曲をつけた「卿雲歌」を中華民国国歌に採用、翌1921年7月1日よりこれを施
行した。しかし同じ1921年、広東で孫文を大総統として組織された「正式政府」にも、
徐謙作詞・劉斐烈作曲の「大中華民国国歌」という案が存在したことが確認できる。
中華国旗凌風飛揚。興我民族華夏之光。人民平等携手同行。共和肇造基民本以為邦。
洪惟民国兮。人民共有共治共享。洪惟民国兮。人民共有共治共享。
〔中華国旗は風をしのいで翻る。我が民族を興起させる、華夏の光である。人民は平
等であり、手を携えてともに進む。共和を創造し、民本に基づいて国をつくろう。大
いに民国を思う。人民が共に有し共に治め共に享受する。 〕
中華国旗薄雲高標。還我民権天日為昭。人民自由真理是效。郅治漸臻順民心以改造。
洪惟民国兮。人民共有共治共享。洪惟民国兮。人民共有共治共享。
〔中華国旗は薄雲の中にそびえる。我が民権を取り戻す、天日は明らかである。人民
は自由であり、真理はならうべきものである。至治に次第に至り、民心にしたがって
改造しよう。大いに民国を思う。人民が共に有し共に治め共に享受する。 〕
中華国旗破空卓立。裕我民生土地日闢。人民相愛干戈永戢。大同共登合世界以為一。
洪惟民国兮。人民共有共治共享。洪惟民国兮。人民共有共治共享。
〔中華国旗は空を破って屹立する。我が民生をゆたかにし、土地は日々ひらかれる。
人民は愛し合い、戦争は永遠に止む。大同にともに至り、世界を合して一つにしよう。
大いに民国を思う。人民が共に有し共に治め共に享受する。 〕
歌詞は一番から三番までそれぞれ三民主義に対応しており、曲は西洋風の明るいもので南京国民政府期の党歌と国歌
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ある(8) 。ただ、この歌が国歌として正式に公布されたことを示す史料は確認できず(9) 、
以後の国歌制定にかかわる議論においてもこの歌への言及はない(10)

しかし、北京政府の正当性を否定し、北京政府の制定したナショナル・シンボルを認め
なかった孫文が「卿雲歌」を中華民国国歌と認めなかったことは確かである。1923年8月
15日、広州で開かれた全国学生連合会第5次評議会に来賓として招かれた孫文はその開会
講演の中で次のように述べている。
例えば五色旗〔北京政府の制定した中華民国国旗〕だが、あなたがたは先ほどあれに
向かって三鞠躬〔敬礼〕したが、私はしなかった。あなたがたはきっと私が国旗に対
して不敬であると思うだろう。五色旗が清朝の一品官の旗であったことを知らないの
か?我々が皇帝の龍旗〔清朝の国旗〕を革めたというのに、 〔清朝の〕官僚の五色旗
を崇拝するというのは、どういうことか!諸君はただちに五色旗を棄て、我々の従前
の革命の旗幟であり、現在海軍が用いている青天白日〔満地紅〕旗を用いなければな
らない。また例えば「卿雲歌」も、あなたたちはそれが国歌であると言う。私はきっ
と官僚が頒布したものだと思う。何の意味があるのか?実際のところこれらの形式に
ついては、今は言わないほうがよい。我々の革命の成功をまって、広く碩学を招き、
大いに群賢を集めて、再び礼楽を制作しても遅くない。 (11)
同年に中国国民党の改組が行われ、翌1924年に第一次全国代表大会が開かれるが、そ
こでも国歌、そして新たに国民党党歌の問題が提起されている。1月24日の同会議上、代
表の劉伯倫は以下のような発言を行った。
一、党旗は色彩によって本党の精神を表示し、党歌は音声によって本党の精神を表示
する、よって党旗があって党歌がないということはありえない。二、現在の中国の国
歌〔卿雲歌〕は、完全に官僚によって制定されたものであり、陳腐で堪えがたく、必
ず本党の主義及び精神を含む党歌を制定し、将来は中国の国歌と定めなければならな
い。三、今回の大会宣言中の結晶となる意義を、一概に党歌の中に編入し、本党党員・
中国国民にこれを聞いて奮起させ、本党の主義を実行するという目的を達成させる。
私はこの三点にもとづいて、党歌制定の必要を認める。
この意見は異議なしとして中央執行委員会に交付して党歌を編制させることが決議され
た(12)
。 「卿雲歌」が「完全に官僚によって制定されたもの」という主張は、前述の孫文の小野寺 史 郎
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発言を受けたものと考えられる。また、当初から国民党の「主義及び精神を含む党歌」を
中華民国国歌とすることが主張されていた点は注意に値する。孫文は辛亥革命以来、青天
白日旗を党旗とし、この青天白日旗を紅地と組み合わせた青天白日満地紅旗を正当な中華
民国国旗と主張してきた。党シンボルと国家シンボルが一致もしくは非常に近いものであ
るべきだという発想は、一方でソ連にならった党国家体制構築に関わるものであると同時
に、このような国民党の政治シンボルに関わる歴史的経緯から来たものだとも言えよう。
ただ、当時の国民党には「卿雲歌」を国歌と認める見解もみられるため(13)
、この問題を
めぐって党内で完全な合意が成立していたとは言いがたい。
同年6月30日の第1届中央執行委員会第39次会議でも、 (一)黄花崗陽暦記念日の規定、
(二)国旗・党旗の解釈、 (三)党歌案の作成に関する上海執行部の提案に対し、 (一)陽
暦3月29日を黄花崗記念日とする、 (二)青天白日旗を党旗及び軍旗とし、青天白日満地
紅旗を国旗とする、 (三)すでに中央執行委員会が懸賞で党歌を募集している、との決議
がなされている(14)
。ここでも革命記念日や国旗・党旗と並んで党歌が国民党の独自の政
治シンボル体系構築の試みの中に位置づけられていたことが分かる。ただ、この時期に行
われたという党歌募集の結果は不明である。
ところで、国民党・国民政府の歴史においては、国歌と党歌の他にもう一つ重要な歌が
あった。 「国民革命歌」である。
1926年7月1日、国民政府教育行政委員会は広州の広東省教育会で中央執行委員会を開
催、翌2日に「請頒布国歌案」を通過、 「 (甲)教育行政〔委員〕会に要請して製作・決定
させる。 (乙)先に文字を定め後に楽譜を定める。 (丙)国歌の未だ頒布されない以前には、
卿雲歌等は、国民革命歌に代える」ことが決定された(15) 。この「国民革命歌」とは以下
の歌である。
打倒列強、打倒列強、除軍閥、除軍閥、
努力国民革命、努力国民革命、齊奮闘、齊奮闘。
打倒列強、打倒列強、除軍閥、除軍閥、
国民革命成功、国民革命成功、齊歓唱、齊歓唱。
〔列強を打倒し、軍閥を取り除こう。国民革命に尽力し、ともに奮闘しよう。
列強を打倒し、軍閥を取り除こう。国民革命を成功させ、ともに楽しみ歌おう。 〕
曲はフランスの民謡である"Frère Jacques"を使用した(図1) 。この歌の成立の経緯に
ついては不明な点が多いが、1925年2月、陳炯明に対する第一次東征の際、占領下の東莞南京国民政府期の党歌と国歌
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で開かれた「市民聯歓会」で既に使用
されていることが確認できる。
この晩東莞県の国民党は特に市民
を招集して市民聯歓会を開催した
が、会に参加したものは千人以上
だった。はじめに謝星南が三民主
義の大意について演説し、……次
に羅振声が国民革命歌の意味につ
いて演説し、次に周恩来が演説し
た。……演説が終わり、国民革命
歌・殺賊歌を合唱した。 (16)
この「国民革命歌」は主に軍隊の行進曲として使われたが、その軽快で覚えやすい曲と
簡明な歌詞から、北伐期に非常に広範に歌われた。例えば1926年11月、日本の在漢口総
領事はこの年のロシア革命記念大会の様子を以下のように報告している(図2) 。
図1  「国民革命歌」師鄭編『国民革命要覧』
出版地不詳:新時代教育社、1927年
図2  「武漢ニ於ケル労農露国十月革命紀念大会報告ノ件」在漢口総領事高尾亨→外務大臣幣原喜重
郎、公信第628号、大正15年11月8日、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B03051255900小野寺 史 郎
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十一月七日国民党員主催ノ下ニ武漢三地市内四ヶ所ニ於テ労農露国十月革命七周年紀
念大会ヲ開催セラレタルカ……会場ノ広場ニハ三台ノ演台設ケアリ中央ニ孫文、レニ
ン、マルクスノ写真ヲ掲ケタリ
当日主催者タル国民党側ヨリハ劉文島、宛希儼、朱代杰、詹大悲、耿丹等ヲ筆頭ニ党
員大多数出席シ漢口ニ於ケル労働者、学生等約二萬五千名参会シ午前十時開会別添伝
単ノ国際歌、少年先鋒歌、国民革命歌ノ唱歌ヲ唱ヘ孫文ノ遺嘱ヲ朗読シ……(17)
さらにこの歌は暫定的に党歌に相当するものとしても用いられた。例えば1927年9月の
杭州のキリスト教学校では、孫文の遺像への三鞠躬礼、遺嘱の朗読、三分間の黙祷の後、
この歌を"Party Anthem"として歌うものとされたという(18) 。国歌・党歌・国民革命歌
が明確に区別されない状態にあったことがわかる。
この「国民革命歌」は北伐後も長く使用されたようで、1929年の『ノース・チャイナ・
ヘラルド』の記事にも「中国の軍隊が行進するところならどこでも、この曲と歌詞を聞く
ことができた」とある(19) 。
Ⅱ 中国国民党党歌の成立 
南京国民政府成立後、この問題をめぐって動きが見られるようになる。
1927年7月1日から5日にかけ、 『民国日報』 (上海)に、中国国民党中央執行委員会宣
伝部が「国民革命歌」を募集するという広告が掲載された。歌詞の意義が国民革命の精神
を的確に表現することができ、またその言葉が勇壮で感情を掻き立てるものであることを
条件とし、期限は7月31日、奨金は300元とした(20) 。前述の「国民革命歌」を代替する
ものを募集したものと考えられるが、その後結果は発表されていない。
これと前後する6月30日、何応欽も南京国民政府に早期の「国歌」制定を求める電文を
送っていた。
革命勢力は、一日千里、中国を統一する日は遠くない。荘厳燦爛の国歌を規定して、
革命成功後の吾が中華民族の自由平等の精神を表現すべきである。このことは、表面
上はどのような重要性ももたないように見えるが、実は全国への影響は非常に深い。
政府に早日の制定頒布を請う。 (21)
注意しなければならないのは、この時期に求められていたのが「国民革命歌」あるいは南京国民政府期の党歌と国歌
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「国歌」であって「党歌」ではなかったということである。前述のようにこれらの概念が
明確に区別されていなかった可能性もあるものの、 「党歌」の制定という問題が「国民革
命歌」や「国歌」に比べて優先順位が低かったということは充分に考え得る。しかしこの
後、実際にまず決定されたのは「党歌」であった。したがってその理由について検討する
必要がある。
中国国民党党歌制定に関する具体的な議論は、北伐完了後、1928年10月8日の第2届中
央執行委員会常務委員会第173次会議で戴季陶が提議を行ったことに始まる。
本党はまさにすみやかに党歌を製定すべきだが、思うに民国13年〔1924年〕の総理
の〔黄埔〕軍官学校に対する訓詞の「三民主義は、わが党の尊ぶところである」とい
う一節は、字句の配置・趣旨ともに党歌として用いるのに都合がよいので、 「中国国
民党党歌」に定め、楽譜については、新聞に掲載して専門家の寄稿を求めるほか、本
会で作曲の専門家数人を招聘して委員会を組織し、研究及び楽譜審査の責任を負うも
のとし、3週間を期限として完成させることを提案し、あわせて当選の作曲者に対し
ては、2000元の賞金を与えることを提案する。
この案は同会議を通過し(22) 、10月9日付けで「中国国民党中央執行委員会徴求党歌歌
譜啓事」が布告された。しかし実際に主要各紙にこの広告が掲載されたのは10月13日以
降であり、応募の締め切りは同24日であったため、実質的な募集期間はわずか11日間で
あった。また、この広告には手続きに関する説明しか書かれておらず、曲の内容に関する
条件には全く触れられていない(23) 。
1 ヵ月後の11月8日の同第181次会議で戴季陶が 「党歌の楽譜は、 すでに応募が多いため、
速やかに委員会を組織して審査し頒布施行すべきである」と再度提議して催促したため、
蔣介石・蔡元培・譚延闓・胡漢民・呉稚暉・張人傑・孫科・戴季陶・葉楚傖の9人の中央
執行委員会・監察委員会常務委員と教育部部長蔣夢麟で党謌曲譜審査委員会を組織、蔡元
培が責任者としてこれを召集し、さらに専門審査委員を招聘し、11月末までに審査を終
えて中央から頒行し、翌年1月1日の使用に備えることが決議された(24) 。
この審査委員会の3度の審査を経て、150件あまりの応募作の中から4案が最終審査に
残った。この4案について南京中学・女中に練習が命じられ、12月28日に南京女中の教
員5人、学生4人、男子中学生10数人が召集されて中央礼堂で試唱した。蔡元培・胡漢民・
戴季陶・蔣夢麟がこれを聞き、結果、程懋筠の案が採用されることとなった(図3) (25)

程懋筠は当時中央大学教育学院藝術科主任などを務めていた音楽教育家である(26)
。決定小野寺 史 郎
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までの経緯から、党歌制定に中心的な役割を果たしたのが戴季陶であったことがわかる。
1929年1月10日の同第190次会議で蔡元培らが報告を行い、毎回の総理記念週〔孫文死
後、毎週月曜日の午前中に開かれた記念集会〕の時に、教育部から人員を派遣して歌唱の
練習を行うよう要請することが決議された(27)
。この曲は程懋筠本人によれば西洋音楽を
基本としたものだが(28)
、 「卿雲歌」や「国民革命歌」が明るく軽快だったのに比べると、
荘厳さが強調されている点に特徴がある。
三民主義、吾党所宗、以建民国、以進大同。
咨爾多士、為民前鋒、夙夜匪懈、主義是従、
矢勤矢勇、必信必忠、一心一徳、貫徹始終。
〔三民主義は、わが党の尊ぶところであり、それによって民国を建設し、大同に進む。
図3  「党歌審査之結果」 『申報』1928年12月31日南京国民政府期の党歌と国歌
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多くの志士よ、民衆の先鋒たれ。朝夕怠ることなく、主義に従え。
よく勤め勇気を奮い、必ず信を守り忠を尽くし、心を一つにし、終始貫徹せよ。 〕
教育部は2月1日、全国の学校に転送配布するため、簡譜と歌詞及び五線譜と歌詞各数部
を印刷発行し、各大学区・直轄大学・省教育庁・特別市教育局に、所轄の各公立・私立学
校の学生に転送配布し、真剣に練習させるよう命じた(29)
。これを受けた上海特別市教育局
では、3月2日、楽譜を市内の公立・私立の各学校に配布し、学生に練習させるよう訓令し
ているのが確認できる(30)
。党と国家が入れ子構造になる党国家体制の下、当初から国家機
関を通じて、国民党という一政党の「党歌」を歌うことが国民に命じられたことがわかる。
さらに下級党部からの、 「各級党部の党歌歌唱の方法に関しては、未だ中央から頒布さ
れておらず、畢竟どの時間に、どの集会で挙行すべきなのか」との問い合わせを受けた訓
練部は、総理奉安〔南京に造営した中山陵に孫文の遺体を正式に埋葬する儀式〕の時期が
近いので、必ず練習し、使用できるようにしなければならない、として「各級党部練唱党
歌暫行辦法」を起草、1929年2月21日の中央執行委員会常務委員会第199次会議を修正通
過した。これは、各級党部が総理記念週・党員大会・講演会・討論会等を挙行する時に、
主席が指導して全党員で党歌を最低2回(総理記念週の時は3回)以上練習すること、党
員がこれらの集会で党歌を練習する際には理由無く早退してはならないこと、などを規定
したものである(31) 。これを受けた上海特別市党部訓練部も「声音の道は、最も精神を啓
発し、人心を感化することができ、党部の訓練に、最も重要に関わる」として練習の方法
を決定した。その内容は、一、党歌一万部に練習方法を付記して印刷して配布させる、二、
上海の著名な音楽家に依頼し、楽器を携帯し、次回の市党部の記念週で演奏させる、三、
女学校に依頼し、既に習熟した学生十人を次回の記念週に派遣し、練習に参加させる、四、
各区党部・各区分部に通令し、おのおの代表三人を派遣し、市党部の記念週に参加させ、
練習に従事させる、五、各社団に通告して次回の記念週に代表を派遣し、練習に参加させ
る、六、人員を各学校の記念週に派遣し、党歌練習の様子を考査させ、以後党員の考査の
際には、党歌を唱えるか否かに注意する、というものであった(32)
。このほか宣伝部は、
既に習熟した学生を選んで党歌を唱わせ、それを録音して第三次全国代表大会での使用に
備えるよう教育部に要請している(33)

以上のように、この党歌の決定に際しては、歌詞案の提出から曲の選定、練習の手配ま
でが非常に短期間で行われた。その理由の一つは、史料に見えるように、この党歌を
1929年3月12日の「総理逝世四周年紀念」及び同15日開幕の中国国民党第三次全国代表
大会に間に合わせる必要があったからであろう。 「各級党部練唱党歌暫行辦法」と同じ2小野寺 史 郎
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月21日の中央執行委員会常務委員会第199次会議を通過した「総理逝世四周年紀念辦法」
は、この日全国の各党・政・軍・学の機関・各団体及び各工場・商店は一律に休日とし、
半旗を掲げ、全党員及び全国の公務員は一律に喪章を付け、全国で一律に娯楽・宴会及び
その他の慶典を禁止し、各地の高級党部は党員及び各機関・団体・学校の代表を召集して
公祭の儀式を行うものとしたが、 この儀式の次第には 「党歌を唱う」 ことが含まれていた(34)

ただ、例えば上海の「総理逝世四周年紀念」大会には十万人が参加したとされるが、報
道には西成小学の生徒が党歌を歌ったとあるのみで(35)
、参加者全員がこの党歌を歌った
わけではなかったようである。また、上海特別市立学校では儀式が「辦法」とは異なる順
序で行われ、党歌ではなく「国民革命歌を歌う」とされた(36) 。作られたばかりの党歌よ
りも「国民革命歌」の方が人口に膾炙していた傍証となるだろう。
ともあれこの「総理逝世四周年紀念」の際に初めて公開の場で用いられたこの党歌は、
以後の国民党のあらゆる政治儀式に組み込まれていくこととなる。 「総理逝世四周年紀念」
は、同年6月1日に開かれた「1920年代末に国民党によって組織された最大にして最重要
の儀式」 (37)である孫文の奉安典礼のリハーサルとしての性格を持っていたため(38) 、各地
で大規模に記念行事が展開された。 そして李恭忠が指摘するように、 孫文の奉安典礼は 「党
葬」であって「国葬」ではなかった(39) 。これが、この時求められたのが「党歌」であっ
て「国歌」でなかった理由であろう。しかし、上海の各学校にこの新党歌の楽譜が送付さ
れたのが10日前の3月2日、その他の各機関でも練習の機会は3月4日・11日の総理記念
週のほとんど2回に限られたと考えられる。
また中国国民党第三次全国代表大会は、民衆運動を重視した国民革命期の政治路線が
はっきりと否定され、民衆運動の抑圧と政府権力への一体化が明白に打ち出されるように
なった、国民党の党としての転換点に位置した大会であった(40) 。その意味において、こ
の大会に用意された党歌が国民党の公式イデオロギーへの服従を命じる内容のものだった
ことは、象徴的と言えよう。
Ⅲ 中国国民党党歌をめぐる議論 
党歌の決定自体について党内から異論があった様子はない。ただ、国民党の各種の儀式
でそれが使用され、また教育部を通じて学校教育の場に「党歌」が持ち込まれたことで、
この歌について党外の教育家・音楽家が批評や意見を発表することとなった。
1929年4月に『東方雑誌』に掲載された音楽家の王瑞嫻の文章は、作曲理論の観点から
程懋筠の曲の構成上の問題点を指摘し、 「党歌」の歌詞に合わせた自作の曲を提示している。南京国民政府期の党歌と国歌
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ただこの文章は最初に、作曲の授業でこの党歌を例として分析した結果を発表するので
「願わくは好学者の参考とならんことを」との断りが入っており、また本文の内容も純粋
に作曲上の技術的な問題に関わるもので、歌詞については全く触れていない(41)

後述するようにこの党歌は1930年3月に代用国歌に採用されるが、その決定直後の『中
央日報』に邱中広という人物が欧米の国歌と「党歌」を比較した文章が掲載されている。
文末に「十八年十一月十二日」とあるため書かれたのはそれ以前だが、 「南京に都を定め
てからは、党が即ち国家であり、教育部が中国国民党党歌を公布した」として、最初から
国歌に相当するものとしてこの「党歌」について論じている。邱中広はまずフランス国歌
〔 「ラ・マルセイエーズ」La Marseillaise〕 、第一次大戦前のドイツ国歌〔ここでは「世界に
冠たるドイツ」Deutschland über allesのことだが、この歌が正式に国歌となったのは第一
次大戦後〕 、アメリカの軍歌「ハイル・コロンビア」 〔Hail, Columbia、 「星条旗」以前のア
メリカの非公式国歌〕 、アメリカの行進曲「星条旗」 〔the Star–spangled Banner、1931年に
アメリカ国歌となる〕 、 「インターナショナル」の歌詞と曲を音楽的に分析し、それぞれの
「国民性」との関係を考察する。その上で「党歌」について、 「この歌の問題は文章がよく
ないことではない。中山先生が演台でこの文章を読んだ時にも、それでよかった。ただそ
れを持ってきて民衆が歌う歌にするのは間違っている」 「外国語には平仄はないが、我々
の使うのは平仄がある言葉である。だから西洋の作曲法を学んだだけで、中国の歌が作れ
るとは思えない」 「歌詞を離れて曲について論じても、この歌には不適当なところがある」
といった評を下した(42) 。
これらの批判に対し、曲の内容にかかわる部分に関しては作曲者の程懋筠自身がやはり
専ら音楽理論の観点から反論を行っている(43) 。
しかし『中央日報』に掲載された邱中広の文章に対しては、 「党歌をほしいままにおと
しめた」として、数日後の同紙上で激しい批判が加えられた。これは、党歌成立の歴史的
経緯を根拠としてその改変を拒否するというもので、その意味で以上に挙げた議論とは全
く次元の異なる内容である。この文章は、 「近来でたらめな批判が本当に多すぎる。主義
を知らずに主義を妄りに談じ、党を知らずに党を妄りに論じる」として、邱中広を当時蔣
介石と対立関係にあった閻錫山や一党独裁を批判した胡適と同類だとまで罵る。したがっ
てこの批判は、音楽としてどうこうというものではなく、専ら「主義」や「党」にかかわ
る政治的な観点からなされたものに他ならない(44) 。
北京政府期においては、教育界・音楽界を中心に、ある種理念化・理想化された国歌を
追求し、その視点から既存の国歌を批判する活発な議論が繰り返し展開された(45)
。しか
し中国国民党党歌に関しては、これ以後あまり積極的な議論は見られない(46)
。そもそも小野寺 史 郎
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邱中広の主張の主旨は「大音楽家の作った曲は往々にして難しすぎ、国民が歌いにくい。
大文学家の作った詞は深奥な思想と典雅な字句を求めざるを得ず、往々にして大多数の国
民には理解できない。このようにしてできた歌は官の歌、学者の歌であって国歌ではない」
「国歌は国民の歌でなければならず、国民の心理に合わなければならず、国民の言葉で話
さなければならない」といった点にあったが、これはむしろ北京政府期以来大多数の音楽
家・教育家に共有されてきた国歌観であり、その意味で何ら特別な主張ではなかった。し
かし、たとえ音楽的な観点から提起された意見であったとしても「主義」や「党」に対す
る批判とみなされかねない。孫文の演説を歌詞とした「党歌」は、当初から不可避的にそ
のような性格を持つ歌であった。そこに、国民党・国民政府の政治文化における孫文とい
う存在の重みを見ることも可能であろう。したがって、この党歌の内容自体について論じ
るよりも、 この党歌と別に国歌を作成するということが以後の議論の中心的な論点となる。
Ⅳ 正式国歌制定の試み 
国民党党歌の制定作業が行われていた間にも、新しい中華民国国歌制定を求める議論は
一貫して存在していた。例えば「各級党部練唱党歌暫行辦法」の頒布を受けて、広東省政
府は南京国民政府に「国歌は別に制定するのか、もし制定するのであれば早急に制定・頒
布し、その輝きを発揚し民気を鼓舞すべきである」と電報で要請している(47) 。また下級党
部からの国歌制定の要請がしばしば中央執行委員会に転送されているのも確認できる(48) 。
この国歌制定の動きが具体化するきっかけは、海外の華人学校からの要請であった。
1930年2月23日、インドネシアの萬鴉渡中華学校(Chung Hwa School Manado)より国民
政府に、何を国歌とするのか、次いで27日に、国民党党歌を国歌の代わりにすることは
可能か、電報で問い合わせがあった(49) 。これに対し、3月13日の第3届中央執行委員会
常務委員会第78次会議は「国歌が未だ製定されない以前は、党歌で代用する」との決議
を行い、同20日に国民政府から直轄各機関に通達した(50)

この決定以降、中国国民党党歌が公式に代用国歌と位置づけられることになる。しかし
これに対しては決定の直後から批判的な意見が発表されている。例えば1930年4月の『東
方公論』に掲載された文章は、党歌を国歌の代用とするのは「国民党一党専制」の象徴で
あるという観点からこの決定を激しく批判している(51) 。ただ、この措置はあくまで暫定
的なものであり、国民党党歌とは別に正式な国歌を作らなければならないという認識はむ
しろ当時の国民党内でも共有されていた。そのためこの決定と前後して正式国歌作成の試
みが開始されている。南京国民政府期の党歌と国歌
375
1 国民政府教育部による国歌制定の試み:1930年5月–1931年4月
1930年3月、中央政治学校区執行委員会第14次会議で、中華民国国歌の制定を求める
決議がなされ、 これを受けた中央執行委員会は国民政府に転送、 処理させることにした(52)

行政院から指示を受けた教育部は、 「総理の博愛の精神、及び三民主義の真諦に適合し、
しばしば総理遺集にも見られる」として、 『礼記』礼運篇の一節を暫時国歌として採用し、
それとは別に募集を行い、その結果を待って再度改める、という案を提出した(53)
。ただ
この案は、行政院第62次会議で教育部に国歌を募集させることを決定しているとの理由
で行政院院長譚延闓によって却下された(54)

そこで教育部は「徴集国歌歌詞辦法」を起草、行政院の許可を得て5月24日に各省教育
庁・各特別市教育局に通令し、さらに8月末を締め切りとして歌詞案を教育部社会教育司
に送付するよう全国に布告した(55)
。 「徴集国歌歌詞辦法」は、 「徴集国歌標準」として、 (一)
歌詞は民族の特性と共同の理想を表出することができ、それによって愛国の観念と民族の
意識を喚起し、三民主義の精神を発揚して、国民にその向かう所を知らしめるものでなけ
ればならない、 (二)歌詞は文字が簡明かつ情趣が深長で、全国の人民の男女老幼に愛唱
させるよう、普及させやすいものが求められる、 (三)歌詞は声調が耳に心地よく、向上
し発揚し、民衆が歌唱して、歓欣鼓舞させるものであることが求められる、の3点を挙げ、
この基準による審査の上、9月に結果を発表し、採用者には1000元を与える、とした。
この期限内に教育部に寄せられた国歌案は714件に上った(56) 。教育部は、国歌はその
重要性から完全を求めなければならないとして、審査国歌委員会を新たに組織し、これら
の応募作品に初歩的な審査を加えたが、その結果、応募作の多くが以下のような欠点を持
つことがわかった。つまり、 (一)文字が簡明通俗ではなく、義務教育を受けた者に理解
できない、 (二)歌詞が冗長で、覚えにくい、 (三)声調が向上発揚するものではなく、韻
に叶うものが少ない、 (四)歌詞に「四萬萬人民」 「四千余年文化」など、永久に用いるに
は適さない言葉を含む、 (五)表現が誇大に過ぎる、といった点である。そこで完全な国
歌を求めるため、徴集期限を同年12月末まで延長し、10月14日に教育部から各省教育庁・
各市教育局に「修正徴集国歌歌詞辦法」を送付して再度の募集を行った(57)

しかしこの再度の募集によって得られた作品についても、審査国歌委員会第三次会議は
「佳作はなお多くないようであり、おのずから期限を延長して徴集すべきである」との結
論を下した。このため教育部は、 「国歌は民族の精神を代表するもので、国民の愛国心を
鼓舞することができるものであり、効用は極めて広く、関係は至って重い」ため、国歌案
の募集期限をさらに1931年6月30日まで延長することとし、4月2日にみたび各省教育庁・
各市教育局に「修正徴集国歌歌詞辦法」を送付した(58)
。小野寺 史 郎
376
しかし最終的に応募案の中から国歌が採用されることはなく、特に発表の無いまま国民
政府教育部による最初の国歌制定の試みは頓挫することとなった。
2 国民政府教育部による国歌制定の試み:1934年4–5月
3年後、1934年4月10日の行政院第155次会議に教育部部長王世杰が新たに4種の「国
歌編製辦法」を提出した。その内容は以下のようなものであった。
一、新しく製作した歌詞を募集する。 18・19の二年間〔民国19・20年の誤り〕 、教
育部は基準を定めて、広く募集し、前後三回で、二千餘首の歌詞を得、委員会で再三
にわたって選考し、二十餘首〔後述の史料によれば第一次審査を通過したのは17案〕
を選び出した。ただこの二十餘首の歌詞も、なお問題が散見され、純粋に使用可能な
ものはほとんど一つも無かった、故に今に至るまで、敢えて世に問うことをしなかっ
た、もし更に期限をきめて募集しても、恐らくは終に結果をみないであろう。
二、党歌を国歌とする。 これはもとよりこれを主張する者があったが、党歌は原来
総理が党員を激励した言葉であり、暫定的に使用する国歌とするのはよいが、将来吾
が党が党綱に依拠して、政権を民に返し、憲政を実行する時に、なお党歌を国歌とす
るのかは、なお検討を待たねばならない。
三、礼運大同篇〔大同という語の出典は『礼記』礼運篇であり、大同篇という篇はな
い〕を国歌とする。 大同篇の説は、我が国で数千年国民が継承してきた政治の理想・
目的というべきであり、つとに総理に激賞されており、三民主義の精髄もまたその中
に含まれる。対外的にももっとも我が堂々たる国風を表現するのに足るものであり、
国歌とするのに、不当ということは無い。ただ国歌は全国の民衆が歌唱して鑑賞する
ものであり、その辞はすべからく浅顕明白で、四年の義務教育を受けた児童が理解す
ることのできるものでなければならない。大同篇の原文は古風で難解で、かつ字句の
長短は一様ではなく、また韻文でもなく、やはりあまり適当ではないようである。
四、大同の説を取って歌詞に編集する。 この方法が最も適当なようである。
ただちにこの第四項の方法に依拠して、党国の碩学を招聘し、そのおのおの製作した
歌詞を募集し、さらに中央で選定後、再度教育部に交付して音楽の専門家を集め、曲
を作成し、中央に送付して審定頒行するのがよいのではないだろうか。 (59)
前に見たように、教育部は1930年の時点で『礼記』礼運篇の章句を国歌の歌詞とする
案を提示していた。この案については一定の支持があったようで、この「辦法」を提出す南京国民政府期の党歌と国歌
377
る前に王世杰は個人的に蔡元培に意見を請い、賛同を得ている(60)
。ただこの案が、 『尚書』
所載の舜の歌を歌詞とした北京政府の「卿雲歌」と、発想において似通ったものであった
点は否定し難い。この点を彼らがどう認識していたのかは不明である。
この案は同会議の決議を経て中央執行委員会政治会議に送られ、4月25日の政治会議第
405次会議で汪兆銘・蔡元培・葉楚傖・呉敬恒・張継・石瑛・邵元冲・陳立夫・甘乃光・
馬超俊・王陸一・羅家倫の12委員と王世杰で審査を行うことが決議された(61)
。5月22日
に開かれたこの国歌審査会第一次会議では、これらの案にそれぞれ意見がつけられた他、
中央委員から歌詞を徴集する案などが論じられ、翌週に第二次審査会議を開くことが決定
された。しかし二回目以降の会議が開かれることはなく、結果としてこの試みも立ち消え
となってしまった(62) 。
3 国民党宣伝部による国歌制定の試み:1936年5–10月
教育部を中心とする国歌制定の試みが挫折した後も、正式国歌制定の要望は繰り返し提
出された。
例えば空軍の第三区分部党員大会が国民政府に早急に国歌の制定を求めた建議が、同第
一区党部から空軍特別党部執行委員会に転送されたが、これについて同委員会は以下のよ
うに中央執行委員会に報告した。
我が国の国歌は、前にすでに中央が通達し、未だ製定されない以前は、党歌で暫時代
用する、としたが、ただ上項の規定は畢竟一時の過渡的な方法であり、未だ永久につ
たえるのに適切ではなく、未だ上項の規定を諳んじておらず、誤ってすでに廃棄した
卿雲歌を我が国の国歌とみなす者もある。例えば今回の遠東大会で(63) 、フィリピン
が我が国歌を演奏した時、まだ卿雲歌を演奏したのは、実に我が国の国体を損ねるこ
とである。
中央執行委員会は組織委員会の批を得て、1934年6月20日にこれを国民政府に転送し
た(64) 。
1935年11月に開かれた中国国民党第五次全国代表大会でも、正太鉄路特別党部籌備委
員会が、 「党歌中の「わが党の尊ぶところである」 「多くの志士よ、民衆の先鋒たれ」といっ
た句は、いずれも国歌と性質が適合しない」として、別に国歌を制定することを提議した。
大会はこれについて国民政府から教育部に国歌を編訂させると決議し、その内容が12月
24日に中央執行委員会から国民政府に転送された(65)
。小野寺 史 郎
378
これらの事例から、国民党地方党部においても、党歌の歌詞は国歌として不適当であり、
最終的には別に正式な国歌を決定しなければならないという考えが一貫して存在していた
ことがわかる。そのため、今度はこれらの意見を汲み上げる形で宣伝部を中心に正式国歌
の制定が試みられた。
1936年5月28日の第5届中央執行委員会第13次常務会議に、宣伝部(当時は副部長の
方治が代理部長)が現行の代用国歌である国民党党歌を正式に国歌とする提案を行った。
本党党歌は、総理の国民革命の過程中における、党員に対する重要な訓詞である。本
党の主義は、既に中華民国建国の基本原則となり、すでに全国のしたがう所となって
いるので、総理の党員に対する訓詞は、また全国国民に対する訓詞と異なることが無
い。現在国民大会開会の期日もすでに決定したので、明確に命令して本党党歌を正式
に国歌とし、それによって体制をとうとび永く歌詠することを提案し要請する(66)

これに対し、常務委員会は党歌の歌詞の前に「民国肇建、建于孫公、宝其主義、民国永
隆、其言有曰〔民国の創建は、孫文によるものであり、その主義を大切にすることで、民
国はながく栄える、その言葉にはいわれがあるのである〕 」と加えることで国歌とすると
いう呉稚暉の案を検討するよう宣伝部に回答した。宣伝部が6月23日に秘書処・組織部・
民衆訓練部・文化事業計画委員会・党史史料編纂委員会の代表と検討した結果、以下のよ
うな理由から宣伝部と呉稚暉の案はともに適当でないと判断された。
党歌は韻文であり、対句を用いるべきであり、呉〔稚暉〕委員の増加した五句は、歌っ
たときに口に馴染まないようである。かつ曲譜の最初の段にさらに増加すべきという
のは、作曲原理からして、恐らく調和し難い。また党歌と国歌には、おのずから区別
があるべきで、含意がそれぞれ異なる。党歌はもともと総理の党員に対する訓辞であ
り、その中の「多くの志士よ、民衆の先鋒たれ」といった言葉は、党員のために発し
たものであり、国歌と定めるのは、また恐らく妥当でない。加えて党歌は善いといっ
ても、いまだ吾が民族五千年来の立国精神を表現することができないのみならず、そ
の歌調は平直であるうえに、声病〔声調にのみ拘泥するという弊害〕がある。この国
難のまさにはなはだしいときに際しては、吾が民族精神を激発する歌詞があって、そ
れを吟唱に供し、国魂を振るわさなければならない。
この意見は「党歌」自体に対する批判も含んでいるという点で貴重である。そのためこ南京国民政府期の党歌と国歌
379
の報告には、本来「党歌」をそのまま国歌とすることを主張していた宣伝部以外の部局の
意見が強く反映されたものと思われる。そこで宣伝部はこの検討結果に基づき、組織部・
民衆訓練部・秘書処・文化事業計画委員会・党史史料編纂委員会と内政部・教育部が各々
代表を派遣し、専門家を招いて国歌編製研究会を組織することを中央執行委員会に提案、
「10月末に結果を報告せよ」との中央執行委員会常務委員会の批を得て、7月28日に国歌
編製研究会第一次会議を開催することを各機関に通達した(67)

その第一次会議には、主任として宣伝部から派遣された傅啓学、内政部礼俗司司長陳念
中らが参加、 (1)章程を起草し、宣伝部の修正を経て中央執行委員会常務委員会に報告す
る、 (2)本会の主任は宣伝部が担当する、 (3)各参加機関は固定代表を本会の委員として
派遣する、 (4)宣伝部から王陸一・汪東・呉梅・柳亜子・唐学詠・趙元任・蕭友梅の7人
の専門家を本会の委員として招聘する、といった内容が決定された(68)

次いで8月19日に開かれた第二次会議には、各機関の代表の他、汪東・趙元任・唐学詠・
蕭友梅の4人が参加、 (1)国歌の編製の基準は(甲)国歌の内在的な意義は、充分に民族
の意識を表現し、愛国の熱情を激発し、荘厳偉大の中に、勇壮浩渾の気を含み、それにか
りて民気を激励し、国魂を鼓舞鋳造し、久遠につたえられてすたれないものであることが
求められる、 (乙)国歌の外面的な形態は、詞句が簡約で、情趣が深長で、歌詞の文字は
雅と俗とで共に賞賛され、情と智とがどちらも含まれるものであることを期し、曲譜の音
律も、また一面で欣賞能力を高め、一面でなお相当の国情を顧みるものであるべきで、そ
れによって普遍を期し歌唱に便利であるようにする、の二点とする、 (2)汪東・王陸一・
呉梅・柳亜子を歌詞に関する責任者とし、唐学詠・蕭友梅・趙元任を曲に関する責任者と
し、会外の専門家とも検討の上、それぞれ草案を作成し次回の会議に提出する、といった
具体的な内容が決定された(69)

さらに9月28日に開かれた第三次会議では、前回の決定を受けて汪東の歌詞案2と唐学
詠の歌詞・曲譜案、唐学詠の曲に呉瞿安〔呉梅〕の歌詞を付したもの1、唐鉞・呉研因の
歌詞案各1とそれに対する趙元任の曲譜案2、蕭友梅の紹介による上海の国立音楽専門学
校の曲譜案4(うち1案は歌詞つき)が提出された他、教育部が国歌を募集した際の応募
作のうち、第一次審査を通過して政治会議に送られた17案の中から、今回さらに狄膺・
徐忍茹・張国仁の3人が審査を行い、 最優秀の案を提出した。 そして以上の案の検討の結果、
(1)先に歌詞を決定し、ついで選定された歌詞について音楽の専門家に作曲を要請する、
(2)すでに徴集した専門家の作成した歌詞と、以前の教育部の徴集した案の中から選出し
た歌詞の中から数首を選出して再度中央常会に送り、最後の決定を行う、と決定した(70)

以上3回の国歌編製研究会を経て、10月8日に国歌擬稿初選第一次会議が開かれた。こ小野寺 史 郎
380
の会議には、国歌編製研究会に提出された専門家の案から6首(第1‒6号) 、教育部への応
募案から狄膺らの選出した1首(第7号) 、そして新たに「中央同志方面」から提出された
案3首(第8‒10号) 、合わせて10首の歌詞案が提出され、このうち第2・7・8・10号の4
首が第一次審査を通過した(71)
。この4案は以下のようなものであった。
第二号
五嶽四瀆揚大風,中華立国雄。
三民五権開大同,中山建国隆。
天下為公。
地貨不棄惟興農,盗竊不作惟興工。
干戈息,礼教崇。
固辺圉,睦隣封。斉唱河清頌。
中国萬歳春融融。
第七号
我中華 立国亜洲東 国旗飄揚 青天白日満地紅 三民主義 五権憲法
創導世界躋大同 民族光栄 億萬斯年 民族光栄 大道之行 天下為公
第八号
我中華,立国亜洲東,声名燦爛垂無窮;三民主義,五権憲法,天下為公。
天下為公,以進大同。中華!炎黄之冑兮,億萬斯年光栄!
第十号
我中華 雄立宇宙中 土地肥沃 文物燦爛 泱泱大国風
大家向前 一斉奮勇 三民主義 世界躋大同 青天白日満地紅(72)
一見して分かるように、第8号・第10号は第7号を元に改作したものであり、その意味
でこの時点で歌詞の決定にかなり近い点にまで到達していたことが分かる。
後の宣伝部の報告は次のように説明している。 「初選会議の審査を経た歌詞で、一部修
正する必要があると思われるものについては、本会が原作者に要請して添削する。同時に
各審査委員にもそれぞれ修正を加え、修正意見を提出するよう要請する、とした。国歌編
制委員会はここで、すでにしばらく一段落を告げた」 。修正意見の提出期限が10月15日で南京国民政府期の党歌と国歌
381
あったことから、宣伝部は16日以後に第二次会議を開く予定であったことが分かる。し
かし結局第二次会議が開かれることはなく、宣伝部による国歌制定の試みも頓挫すること
となった。
4  「党歌を国歌とする」 :1937年4–6月
半年後の1937年4月27日、宣伝部部長邵力子が中央執行委員会常務委員会に、1930年
以来の国歌歌詞制定過程に関する概要を、国歌編制研究会の報告書、選定された国歌歌詞
と修正意見、原作者と審査委員の修正稿とその他関連文書とともに提出、 「早期に楽譜を
募集する」ことを要請した(73) 。5月20日の第5届中央執行委員会常務委員会第44次会議で、
この件については中央執行・監察委員会常務委員、五院院長が別に審議を行って編製する
ことが決議される(74)
。そして続く6月3日の同第45次会議で正式に「中国国民党党歌を、
中華民国国歌とする」ことが決議され、6月21日に国民政府から公布された(75) 。中央執
行委員会常務委員会において、その理由は以下のように説明された。
国歌の成立には、必ずその歴史がなければならない、現行の党歌は総理の訓詞であり、
〔民国〕13年以来、はじめ国民革命軍に用いられ、ついで全国に普及し、各友邦もま
た皆習用しており、重ねて別に製作するのは、転じて融通の利かない嫌いがある。教
育部の選んだ各稿を詳細にみると、おのおの長所があるとはいえ、またおのおの短所
もあり、すでに国歌編製研究会が注釈を加えている。現行の党歌は意義の包括する所
が至って広く、あらゆる中国立国の大本は、いずれもすでに三民主義に包含されてい
る。その中の「吾党」の二字は、本党を指して言っているのだと説く者があり、これ
が別に国歌を製作することを提議する原因となっているが、おもうに「吾党」の二字
は、広義に解釈すれば、 「吾人〔われわれ〕 」と同義であり、総理は手ずから民国を創っ
たので、すなわちその訓詞を国歌とするのは、それにかりて全国の人民の敬慕に資す
るもので、もっとも至当である(76)

党歌を国歌の代用とする決定から正式に国歌とするまで実に7年以上の時間がかかった
ことになる。この理由にはいくつか考えられる。
一つには、国歌としての採用理由の中でわざわざ釈明がなされていることからも分かる
ように、やはり中国国民党党歌の歌詞に明らかに国歌にふさわしくない部分があったから
であろう。それは不可避的に、党歌を国歌とすること自体に対する違和感をも生じさせる
こととなった。実際にこの後も国民党・国民政府に新国歌の制定を求める意見や新国歌の小野寺 史 郎
382
私案が提出されていることからも、当時において必ずしもこの説明が容易に受け入れられ
たわけではなかったことがわかる。
また、そもそも成立の経緯において見たように、中国国民党党歌は一義的には「総理逝
世四周年紀念」と第三次全国代表大会で使う儀式唱歌として採用されたものであった。そ
のため、後に教育部が国歌案を募集する際に挙げた「歌詞は文字が簡明かつ情趣が深長で、
全国の人民の男女老幼に愛唱させるよう、普及させやすいもの」 「歌詞は声調が耳に心地
よく、向上し発揚し、民衆が歌唱して、歓欣鼓舞させるものであること」といった条件は
そもそも考慮されていない。
結果としてこの国歌は、これ以後も「全国の人民の男女老幼に愛唱させる」 「民衆が歌
唱して、歓欣鼓舞させる」ものというよりも、専ら国民党・国民政府の政治儀式用の音楽
としての性格が強いものであり続けたと考えられる。例えば蔣介石は1934年に社会改良
を目的とした大規模な大衆運動「新生活運動」を開始するが、その初期における最も基本
的な規定であった「新生活須知」の社会生活に関する各種条項の中には「党国歌を歌う際
には起立しなければならない」というものが含まれている(77) 。ここに現れた「党国歌」
観は、 「愛唱」するものというよりも、むしろみだりに歌うべきでないもの、というもの
である(78) 。
しかし一方で、党国家体制の下、国家自体が三民主義に基づいて運営されるとされた以
上、国歌もやはり三民主義に基づくものにならざるを得ない。そうであるならば敢えて党
歌と別のものとして国歌を作成する意味はどこにあるのか。
結局のところ長期に渡る国歌制定の試みとその挫折の過程は、この二つの立場の間のせ
めぎ合いであったようにも思われる。
逆に、くりかえし国歌案を募集しながらも最終的な決定に至らないという過程に、北京
政府期における国歌制定の試みとの連続性を見ることも可能であろう。そこには、北京政
府期の多くの音楽家や教育家がそうであったように、新しく作成する国歌にこの上ない完
全性を求める心性が垣間見える。理想が高すぎたゆえに完成しなかったのだと言ってもよ
いのかもしれない。
おわりに―国歌・党歌問題の再燃 
以上が南京国民政府期に中国国民党党歌が成立し、さらにそれが国歌に採用された経緯
である。 「党歌を国歌とする」決定の僅か半月後に日中戦争が本格化したこともあって、
この後国歌の変更が政府によって具体的に試みられることはなかった。南京国民政府期の党歌と国歌
383
しかし、実は戦後の憲政実施が現実の政治課題となった際、国歌と党歌の関係が再度問
題として浮上したことがある。
例えば1944年1月13日の『掃蕩報』に掲載された文章は「党歌を暫定的に国歌の代わ
りとしている」現状について述べた上で「現在は礼楽を制作する時か?  この新年、我々
は抗戦の前途について、ますます勝利が近づいているように感じられる。戦後一年以内に
国民大会を開き、憲法を公布し、憲政を実施するのであれば、まだその時が来ていないと
いうことはできない」と新国歌の作成を主張した(79)

1946年3月26日の『文匯報』には、蔣介石が自ら国歌を作成しているという記事が掲
載され、 「現在国民党はすでに政を民にかえすことを決定しているので、以党治国の時期
は終わりを告げるのであり、党と国は分けなければならないので、党歌を国歌の代わりに
することができないのは、理の当然である」との論評がなされている(80)

国民大会を経て翌1947年1月1日に中華民国憲法が公布される。そして国民政府の改組
と中国青年党・民主社会党の政府参加を目前にした4月2日の国民党第6届中央執行委員
会常務委員会第63次会議には、 以下のような提議がなされている。 つまり、 訓政期には、 党・
政府・軍・警察の各機関、各団体、学校等はいずれも総理記念週を開催し、国旗と中国国
民党党旗を掲げ、会議を開く際には総理遺嘱を黙読すると辦法で規定していた。しかし現
在既に憲法が公布され、各党各派が政府に参加しようとしており、この辦法は修正を加え
なければならない、というものである。これに対して、 「于右任・張厲生・張道藩・邵力子・
王啓江・張知本・馬超俊の7委員に検討させる」との決議がなされた(81) 。
そこで、于右任らがこの問題について検討して報告を提出(82) 、4月16日の同第64次会
議は、総理記念週および党旗・国旗の掲揚、会議を開く際に総理の遺嘱を黙読するといっ
た規則については、各級政府・民意機関・人民団体および各級学校では一律に停止し、国
民党各級党部では従来どおり行う、との決議を行った。さらにこの決議は国歌問題にも言
及しており、改めて「政府が未だ新国歌を制定しない以前には、暫定的に現行国歌を使用
する」 との文言が盛り込まれた(83)
。 この決定によって国民党党歌は再度 「暫定」 国歌となっ
たのである。
この後、国共内戦の激化によって実際に「新国歌」の制定が試みられることはなかった
ものの、当時の国民党内外に、訓政の終了に伴う党のシンボルと国家のシンボルの形式的
な分離という志向が明確に存在していたことがわかる。前述のように王世杰は1934年の
時点で既に「将来吾が党が党綱に依拠して、政権を民に返し、憲政を実行する時に、なお
党歌を国歌とするのかは、なお検討を待たねばならない」との指摘を行っていたが、この
問題はその後も一貫して国民政府に伏在し続けることとなったのである。小野寺 史 郎
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註 
  (1)孫鎮東『国旗国歌国花史話』台北:伝記文学雑誌社、1981年。
  (2)皮後鋒「中国近代国歌考述」 『近代史研究』第86号、1995年3月。概説としてはこの他、
忻平「中国国歌史略」 『社会科学研究』1986年第6期、同「 《卿雲歌》―《三民主義歌》 」
忻平・胡正豪・李学昌主編『民国社会大観』福州:福建人民出版社、1991年、もあるが、や
はり史料的根拠の判然としない記述や事実関係の誤りが見受けられる。
  (3)Henrietta Harrison, The Making of the Republican Citizen: Political Ceremonies and Symbols in
China, 1911–1929, Oxford: Oxford University Press, 2000, pp. 110‒111, 174‒175.
  (4)この点については洪長泰も書評の中で指摘している。Chang–tai Hung, "Henrietta Harrison.
The Making of the Republican Citizen: Political Ceremonies and Symbols in China, 1911–1929"
(Review) , China Review International, Vol. 8, No. 2  (Fall 2001) , p. 391.
  (5)遊佐徹「宣統三年の大清国国歌」 『中国文史論叢』第1号、2005年3月。
  (6)李静「民国国歌《卿雲歌》的誕生与争論」 『文藝研究』第181期、2007年3月。
  (7)小野寺史郎「近代中国の国歌問題―清末から北京政府期を中心に」 『中国哲学研究』第
24号、2009年11月。
  (8)中国国民党文化伝播委員会党史館所蔵上海環龍路檔案「大中華民国国歌」359/15.1。
  (9)前掲忻平「中国国歌史略」は広東軍政府が徐謙作詞・劉斐烈作曲の「国歌」を制定した
と述べているが、具体的な内容や史料的根拠は示されていない。
(10)ただしこの歌自体は『音楽雑誌』第2巻第7号、1921年9月、に「南政府国歌譜」として
紹介されている他、 『清華週刊』第31巻第1号、1929年3月29日、にも「国民政府国歌」と
して掲載されている。
(11) 「在全国学生評議会之演説」 『中央党務月刊』第7期、1929年2月。
(12)中国第二歴史檔案館編『中国国民党第一・二次全国代表大会会議史料』南京:江蘇古籍
出版社、1986年、42頁。なお、同じ提案が『中国国民党周刊』にも掲載されているが、該当
箇所は「吾が党は党によって国を造る〔以党造国〕責任を担おうとしている以上、 〔卿雲歌
に替えて〕再度中華民国の国歌を制定し、同時にそれを本党の党歌に決めてもかまわない」
となっており、国歌と党歌の前後関係が逆になっている。 「全国代表大会各種重要提議(六)
請製定党歌案」 『中国国民党周刊』第10期、1924年3月2日。五色旗については、小野寺史
郎 「清末民初の国旗をめぐる構想と抗争―青天白日旗と五色旗について―」 『歴史学研究』
第803号、2005年7月、を参照。
(13)例えば中央執行委員会宣伝部「国旗釈義」 『中国国民党周刊』第42号、1924年10月26日、
という文章は、青天白日満地紅旗が五色旗よりも優れた国旗である根拠として、それが「卿
雲歌」の主旨にかなうという理由を挙げている。
(14)中央委員会秘書処編印『中国国民党第一届中央執行委員会会議紀録彙編』出版地不詳:
中央委員会秘書処、1954年、78頁。
(15) 『教育雑誌』第18巻第8号、1926年8月20日。
(16) 「東莞各界対黄埔革命軍之信仰」 『民国日報』 (上海)1925年2月18日。梅徳華「 『国民革
命歌』詞作者―羅振声」 『紅岩春秋』第41期、1996年9月、はこのエピソードから羅振声
が国民革命歌の作詞者であるとしている。これに対し、羅才国「鄺鄘与北伐軍歌」 『湖南党
史月刊』第83期、1988年5月、羅林遠「 "殺了鄺鄘、還有鄺鄘"―北伐軍歌作者与蔣介石南京国民政府期の党歌と国歌
385
的師生糾葛」 『炎黄春秋』第36期、1995年3月、同「高唱軍歌赴刑場―記『北伐軍歌』作
者鄺鄘」 『党史縦横』第168期、2000年2月、等は、黄埔軍官学校出身で国民革命軍第四軍政
治部宣伝科長だった共産党員鄺鄘が1926年に作詞したとしている。ただし、いずれの文章に
も史料的根拠は示されていない。
(17) 「武漢ニ於ケル労農露国十月革命紀念大会報告ノ件」 、在漢口総領事高尾亨→外務大臣幣
原喜重郎、公信第628号、大正15年11月8日、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.
B03051255900、露国革命一件/出兵関係/西比利亜政情第30巻(外務省外交史料館) 。
(18)"The Party Anthem," Hangchow, Sep. 14, North China Herald, 24 September, 1927. 同記事に
はこの国民革命歌の2番の歌詞が訳出されている。
(19)"The Musical Communist," Kiukiang, Apr.7, North China Herald, 13 April 1929. 同記事によれ
ば、 この曲は国民政府の顧問であったボロジン (Mikhail Borodin、 鮑羅廷) が導入したもので、
国民革命後は「ド、レ、ミ、ファ」と音階で歌っていたという。
(20) 「懸奨徴求国民革命歌広告」 『民国日報』 (上海)1927年7月1‒5日。
(21)何応欽→南京国民政府、電、地字965号、1927年6月30日、第二歴史檔案館所蔵国民政
府檔案「関於制定国歌問題与党務機関往来文書」1 / 1304。なお、ハリソンは同史料を「No. 2
Archives: 1. 87」から引いているが、第二歴史檔案館の全宗号1案巻号87は「日本投降後国際
要聞剪報」であり、該当史料は存在しなかった。ハリソンは同書の数箇所で「No. 2 Archives:
1. 87」から史料を引用しているが、全て檔案番号の誤記と思われる。
(22)中国第二歴史檔案館編『中国国民党中央執行委員会常務委員会会議録』桂林:広西師範
大学出版社、2000年、第6冊232頁。
(23) 「中国国民党中央執行委員会徴求党歌歌譜啓事」 『民国日報』 (上海)1928年10月13日、 『中
央日報』1928年10月13日、 『申報』1928年10月13日、等。
(24) 『中国国民党中央執行委員会常務委員会会議録』第6冊350‒351頁。ただ、当時蔡元培が
南京にいなかったため、11月16日の同第183次会議で譚延闓が責任者に改められた。 『中国
国民党中央執行委員会常務委員会会議録』第6冊378頁。
(25) 「党歌審査之結果」 『申報』1928年12月31日。孫鎮東『国旗国歌国花史話』52頁は応募数
を139件としているが、史料的根拠を示していない。 『ノース・チャイナ・ヘラルド』はこの
『申報』の記事を転載、楽譜のコピーを歌詞全文の英訳とともに第一面に掲載した。ただし
同記事では「曲と歌詞はともに程懋筠によるものである」と誤って記載されている。"The
New National Song," North China Herald, 5 January 1929.
(26)羅藝峰「一位歴史遺忘的音楽家―作曲家程懋筠」向延生編『中国近現代音楽家伝』瀋陽:
春風文藝出版社、1994年、繆天瑞「紀念程懋筠先生」 『中央音楽学院学報』第104期、2006
年8月、李岩「紀念程懋筠的理由及問題的評判」 『天津音楽学院学報(天籟) 』第88期、2007
年3月、等を参照。
(27) 『中国国民党中央執行委員会常務委員会会議録』第7冊33頁。"China's National Song Adopted,"
Nanking, Jan. 10, North China Herald, 19 January 1929. ハリソンは、前述の1927年の何応欽の
提案による募集の結果、中央大学のある教授が応募した、孫文の黄埔軍官学校における演説か
ら引用した歌詞が採用され、曲は "popular folk tune"から採られた、としている。Harrison,
op.cit., pp. 192‒196. 総理記念週については、石川禎浩「死後の孫文―遺書と記念週」 『東方
学報』第79冊、2006年9月、を参照。
(28)程懋筠「中国国民党党歌歌譜之解釈」 『中華教育界』第19巻第5期、1931年11月。小野寺 史 郎
386
(29) 『教育部公報』第1巻第3期、1929年3月。
(30) 「市教育局令発党歌及歌譜」 『民国日報』 (上海)1929年2月28日、 「市教育局通令各校演
習党歌」 『民国日報』 (上海)1929年3月3日。
(31) 『中国国民党中央執行委員会常務会議記録』第7冊、338・348‒351頁。この後、さらに宣
伝部・組織部・訓練部が提議した、総理記念週及び各種大会において、総理遺像に三鞠躬礼
をする前に党歌を練習するとの案が、5月20日の第3届中央執行委員会常務委員会第13次会
議を通過、各級党部に通達することが決議されている。 『中国国民党中央執行委員会常務会
議記録』第8冊、208頁。
(32) 「本市訓練部積極進行党歌訓練」 『民国日報』 (上海)1929年3月13日。
(33) 「党歌将製留声片」 『民国日報』 (上海)1929年3月1日。
(34) 『国民政府公報』第105号、1929年3月1日。
(35) 「総理逝世四週紀念公祭式」 『民国日報』 (上海)1929年3月13日。
(36) 「上海特別市全市各級学校紀念総理忌辰」 『民国日報』 (上海)1929年3月13日。
(37)Harrison, op.cit., p. 207.
(38)もともと奉安典礼は「総理逝世四周年」に合わせて開催される予定だったが、準備が間
に合わなかったため、2月7日の中央執行委員会常務委員会第196次会議で急遽延期が決定さ
れた。 『中国国民党中央執行委員会常務会議記録』第7冊、217‒218頁。
(39)李恭忠「 "党葬"孫中山―現代中国的儀式与政治」 『清華大学学報(哲学社会科学版) 』
第21巻第3期、2006年5月。
(40)久保亨「南京政府成立期の中国国民党―1929年の三全大会を中心に―」 『アジア研究』
第31巻第1号、1984年4月。
(41)王瑞嫻「対於国民党党歌的歌調之商榷」 『東方雑誌』第26巻第8号、1929年4月25日。
(42)邱中広「欧美国歌與国民党党歌之歌詞及曲調」 『中央日報』副刊『大道』第261‒262号、
1930年3月18‒19日。
(43)前掲程懋筠「中国国民党党歌歌譜之解釈」 。文末に「十九年九月三十日稿」とある。もと
もと『東方雑誌』に投稿したが掲載されなかったとの説明が付されている。
(44)之溟〔陳志明〕 「答邱中広先生対党歌之批評」 『中央日報』副刊『大道』第267号、1930
年3月26日。
(45)前掲小野寺「近代中国の国歌問題」 。
(46)数少ない例として、虞廷〔呉承仕〕 「国歌改造運動」 『文史』第1巻第1号、1934年4月15日、
が「国歌」 (ここでは中国音楽全般を指す)の改造を訴える中で「党歌」の歌詞の声調と曲
が符合していないと批判している。
(47)広東省政府→南京国民政府、電、1929年2月26日、第二歴史檔案館所蔵国民政府檔案「関
於制定国歌問題与党務機関往来文書」1 / 1304。
(48)中国国民党漢口特別市党務指導委員会常務委員涂允擅・林逸聖・陶鈞→中央執行委員会、
呈、1928年11月22日、第二歴史檔案館所蔵国民政府檔案「関於制定国歌問題与党務機関往
来文書」1 /  1304、国民政府代理参軍長賀耀組→国民政府主席蔣介石、呈、1929年6月28日、
同上、等。前者は漢口特別市党務指導委員会第六区指導委員会第一組党員劉家佺・曽繁鴻の
提案、後者は軍楽隊長何肇廉という人物の提案を転送したもの。
(49)萬鴉渡中華学校→南京国民政府、電、1930年2月23日、国史館審編処編『国史館数位典
蔵計画出版系列 国民政府檔案(一)中華民国国旗與国歌史料』 〔以下『国旗與国歌史料』南京国民政府期の党歌と国歌
387
と略す〕台北:国史館、2003年、343‒346頁。
(50)中央執行委員会秘書処秘書長陳立夫→国民政府、公函第2608号、1930年3月17日、 『国
旗與国歌史料』351‒358頁、 『国民政府公報』第424号、1930年3月21日。
(51)匹夫「異哉以党歌代国歌」 『東方公論』第20期、1930年4月20日。
(52)中央執行委員会秘書処秘書長陳立夫→国民政府文官処、公函第3192号、1930年3月7日、
第二歴史檔案館所蔵国民政府檔案「関於制定国歌問題与党務機関往来文書」1 / 1304。
(53)教育部→行政院秘書処、函、1930年3月21日、第二歴史檔案館所蔵行政院檔案「制定中
華民国国徽国旗及徴集国歌辦法」2(2)  / 22。
(54)行政院秘書処→教育部、箋函第598号、1930年3月26日、第二歴史檔案館所蔵行政院檔
案「制定中華民国国徽国旗及徴集国歌辦法」2(2)  / 22。
(55) 『教育部公報』第2巻第22期、1930年5月31日。
(56)中央統計処編『中国国民党指導下之政治成績統計』十九年八月份。
(57) 『教育部公報』第2巻第41・42期、1930年10月18日。
(58) 『教育部公報』第3巻第13期、1931年4月5日。
(59)教育部部長王世杰→行政院政務処、公函第3688号、1934年4月6日、第二歴史檔案館所
蔵行政院檔案「制定中華民国国徽国旗及徴集国歌辦法」2(2)  /  22、中央執行委員会宣伝部→
中央秘書処、公函誠字第5594号、1937年4月27日、中国国民党文化伝播委員会党史館所蔵
中央執行委員会檔案「関於国歌歌詞之編製案」5.3 / 44.31。
(60) 「日記」1934年2月16日、中国蔡元培研究会編『蔡元培全集』第16巻、杭州:浙江教育
出版社、1998年、315頁。
(61)中国国民党文化伝播委員会党史館所蔵中央執行委員会檔案「中国国民党中央執行委員会
政治会議第四百零五次会議紀録」00.1 / 97。
(62)中央執行委員会宣伝部→中央秘書処、公函誠字第5594号、1937年4月27日、中国国民党
文化伝播委員会党史館所蔵中央執行委員会檔案「関於国歌歌詞之編製案」5.3 / 44.31。
(63)1913年から1934年にかけて、フィリピン・中国・日本の三か国の間で10回にわたって開
催された国際競技会。英語名称は"Far Eastern Championship Games"、日本語では「極東選
手権競技大会」 。高嶋航「極東選手権競技大会と YMCA」夫馬進編『中国東アジア外交交流
史の研究』京都大学学術出版会、2007年、を参照。
(64)中央執行委員会秘書処秘書長葉楚傖→国民政府文官処、公函第8411号、1934年6月20日、
『国旗與国歌史料』270‒274頁。
(65)中央執行委員会→国民政府、公函第903号、1935年12月24日、 『国旗與国歌史料』275‒
279頁。
(66)中央宣伝部→中央常務委員会、呈、1936年5月11日、中国国民党文化伝播委員会党史館
所蔵中央執行委員会檔案「請以本党党歌正式定為国歌案」5.3 / 13.10、中央委員会秘書処編
印『中国国民党第五届中央執行委員会常務委員会会議紀録彙編(上) 』出版地不詳:中央委
員会秘書処、出版年不詳、69頁。
(67)中央執行委員会宣伝部→内政部、公函誠字第2395号、1936年7月25日、 『国旗與国歌史料』
280‒284頁、中央執行委員会宣伝部→中央秘書処、公函誠字第5594号、1937年4月27日、中
国国民党文化伝播委員会党史館所蔵中央執行委員会檔案「関於国歌歌詞之編製案」5.3 / 44.31。
(68)礼俗司司長陳念中→内政部部長・次長、呈、1936年7月30日、 『国旗與国歌史料』285‒
286頁。小野寺 史 郎
388
(69)中央宣伝部→礼俗司第一科科長李安、函、1936年9月3日、 『国旗與国歌史料』310‒315頁。
(70)礼俗司司長陳念中→内政部部長・次長、呈、1936年10月12日、 『国旗與国歌史料』325‒
329頁。
(71)礼俗司司長陳念中→内政部部長・次長、呈、1936年10月13日、 『国旗與国歌史料』331‒
333頁。
(72)礼俗司司長陳念中→内政部部長・次長、呈、1936年10月9日、国史館所蔵国民政府檔案「中
華民国国歌辞譜案」0100.14 / 5044(2) 。
(73)中央執行委員会宣伝部→中央秘書処、公函誠字第5594号、1937年4月27日、中国国民党
文化伝播委員会党史館所蔵中央執行委員会檔案「関於国歌歌詞之編製案」5.3/44.31。
(74) 『中国国民党第五届中央執行委員会常務委員会会議紀録彙編(上) 』145頁。
(75)国民政府→直轄各機関、訓令、1937年6月21日、 『国旗與国歌史料』367‒369頁。
(76) 『中国国民党第五届中央執行委員会常務委員会会議紀録彙編(上) 』149頁。
(77) 「新生活須知(初稿) 」陳又新・楊瑞麐合編『新生活運動之理論與実際』北京:警官高等
学校、1935年、第2篇11頁。新生活運動については、段瑞聡『蔣介石と新生活運動』慶應義
塾大学出版会、2006年、を参照。
(78)なお結果としてこの歌が当時の国民の間にどれだけ普及したのかについては、日中戦争
中の「大後方」における労働者の「国家意識」の欠如を指摘した張瑞徳の論文が参考になる。
それによれば、当時の成都の各大学で100人の「工友」を対象にアンケートをとったところ、
「青天白日旗はどの国の国旗か」という問いに対しては81人が「知っている」と答えたのに
対し、 「国歌を歌えるか」との問いに「歌える」と答えたのは34人だったという。張瑞徳「戦
争與工人文化―抗戦時期大後方工人的認同問題」黄克武主編『第三届国際漢学会議論文集      
歴史組 軍事組織與戦争』台北:中央研究院近代史研究所、2002年、246‒247頁。
(79)曙山〔周曙山〕 「我們的国歌」 『掃蕩報』1944年1月13日。
(80) 「歓迎新国歌」 『文匯報』1946年3月26日、 「主席与国歌」同5月4日。
(81)中央委員会秘書処編印『中国国民党第六届中央執行委員会常務委員会会議紀録彙編』出
版地不詳:中央委員会秘書処、1954年、404頁。
(82)日付不明、 「総理紀念週及懸掛党国旗開会黙読遺嘱等辦法審査意見」中国国民党文化伝播
委員会党史館所蔵中央執行委員会檔案6.3 / 91.4。
(83) 『中国国民党第六届中央執行委員会常務委員会会議紀録彙編』410頁。



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